ノックの音がした。
「お兄ちゃん、絢香だけど・・・」
続いて遠慮がちな妹の声。
「あ、ああ・・・・入れよ」
俺は鏡を見て、自分の口元が緩んでいないことを確かめてから返事をした。
恐る恐るといった感じで部屋の扉が開く。
その向こうから姿を現した妹の顔には、不安と心配と苛立ちが混ざっているのが見て取れた。
まあ無理も無い。
俺がいつになく真面目な顔付きで「あとで部屋まで来てくれないか」などと言ったものだから、困惑しているのだろう。
ちらりと壁に掛かった時計を見やる。
時報にちゃんと合わせていれば、あと10分で今日も終わってしまうらしい。
これは急がなければならない。
今日中に、これを済ませないといけないのだ。
「・・・で、どうしたの?」
絢香がいつになく、か細い声で言った。
「エイプリルフールの罠」
今日がエイプリルフールだと気がついたのは、会社から帰ってテレビを見ていた時だった。
あんまりたいしたイベントではないが、毎年この日を過ぎてから『ああ、誰かだましときゃよかったな』なんて思ってしまうのは俺が貧乏性なだけなのだろうか?
(よし、今年こそ誰かに嘘ついてやれ・・・)
そう思いついたものの、時刻はもう夜の10時を過ぎている。
友達にメールで大嘘でもついてやろうか。
でもこんな時間じゃ、返事が返ってくるのは明日になるかもしれない。
身内はというと、親はとっくに夢の中だ。
ふと隣を見ると、雑誌を読むのに夢中になっている妹が居る。
いつも生意気で、我侭ばっかり言って俺を振り回す子憎たらしい奴。
何かあるたびに俺にちょっかい出してくる、まるで小姑のような妹だ。
(そうか・・・こいつを騙してやれ・・・)
今日くらいはギャフンと言わせて、日ごろ鬱憤を晴らしたい。
では、どんな嘘がいいか。
そう思案しながらチャンネルを変えていると、いかにも安っぽいドラマが目に止まった。
「ユウコ・・・おれ・・・お前のことが・・・」
「だめよ、わたしたち、兄妹なのよ・・・!」
こんな設定が今の若い奴に受けているのかどうか、甚だ疑問ではあったが、今の俺には格好のネタだった。
(そうか・・・これでもやってみるか・・・)
そういうわけで、俺は、わざわざ自分の部屋に妹を呼び出したのだった。
さも何かあるように思わせて。
「居間で話せばよかったのに・・・・」
妹は落ち着かないのか、俺の部屋をきょろきょろと見回しながら言った。
「いや、この部屋じゃないとちょっとな・・・。親に聞かれるとマズイし」
「・・・そう・・・なんだ」
いつもは生意気な喋り方だが、俺の堅苦しい雰囲気に押されたのか、やけに弱々しい返事だった。
俺の演技もなかなかのもんだ。
「まあ、ちょっと座れよ」
「・・・うん」
妹は俺に促されるまま、ベッドに座っている俺の横に腰掛けた。
二人分の重さに、ベッドがギシリと音を立てる。
「・・・で、まあ、ちょっとした・・・下らない・・・いや、くだらなくないな、真面目な話があるんだ・・・・・」
そう言ってわざと視線を逸らす俺。
そうでないと、さっきから堪えている笑いが顔に出てしまいそうだったからだ。
「うん・・・・それで・・・?」
「こんなこと、言うのはおかしいと思う。だけど・・・もう我慢できないんだ」
妹は黙って俺を見つめていた。
そのまじめな顔つきに、少しだけ罪悪感が沸く。
だけどここまできて止める訳にはいかない。
「驚かないで聞いてくれよ。俺な・・・ずっと前から・・・」
「・・・・」
「お前のことが好きだったんだ」
いつもの絢香なら、「何冗談言ってんのよ」と言うに違いない。
だが俺は、それでも真面目な顔で突き通す。
するとさすがの絢香も信じ込み始めるだろう。
そこですかさず「今日はエイプリルフールだよ。ゲラゲラ」と言い返してやるのだ。
「ば・・・ばかじゃないの?!」
「でもお前、ちょっと信じきってなかった?」
「するわけないでしょ!バカ!」
なんて反応を期待していた。
しかし、我ながらなんて餓鬼っぽい嘘だなんだろう・・・。
ところが肝心の絢香はというと。
なぜか大きな瞳をよりいっそう大きく開き、え、と小さく声を洩らすだけだった。
(・・・・おかしいな)
予想していたのと違う反応だった。
戸惑いながらも、頭の台本に書いていた台詞を口に出す。
「実の妹にこんなこというなんておかしいと思う。けど・・・本気なんだ。絢香のことを愛してしまったんだ・・・」
これでどうだ。
なのに絢香はその言葉を聞くと、何故か顔を伏せてしまった。
綺麗に整った前髪が表情を隠し、どんな反応を見せているのか分からない。
それでもただ一つ言える事は、いつもの絢香とは明らかに態度が違うということだ。
(な、なんか言ってくれよ・・・調子狂うぜ・・・・)
やたらと自分の鼓動がうるさい。
いつもは気にならない時計の秒針が、やけに耳に付いた。
なんでこんなに緊張してんだろ、俺・・・。
「・・・あのね・・・」
どれくらい経っただろう。
妹の唇がようやく開いた。
黙っていたせいか、すこし声が枯れている。
「・・・どうしようか・・・私も・・・ずっと迷ってたの・・・」
(なんのことだろう・・・)
「でも、お兄ちゃんがそう言ってくれるなら・・・私も・・・」
(・・・・え?)
自分から切り出したことなのに、さっぱりこの展開が掴めない。
俯いていた顔をあげた妹が、俺の目をまっすぐ見ながら言った。
「おにいちゃん・・・私もずっと・・・好きだったよ・・・」
(・・・じ・・・じょ・・・冗談だろ・・・・?)
何がなんだか分からなくなっていた。
「・・・うそ・・・だろ?」
思わず口に出していた俺だが、絢香の顔を見るととても冗談とは思えなかった。
絢香の頬はまるで赤ん坊のように真っ赤で。
瞳が涙を湛えたように潤んでいて。
日常では見せたこと無いその切なそうな表情に俺は・・・。
少しだけクラッときた。
「嘘なんかじゃないよ・・・」
「・・・や・・・ほら、今日はあれだぞ、4月バカ、エイプリルフールだ。それだろ?」
「・・・・違うよ・・・本当だよ。じゃあお兄ちゃんは嘘だったの・・・?」
「っ・・・え・・・や・・・・そ・・・の・・・・・」
妹は突然俺の近くに座りなおすと、俺の肩にコツンと頭を乗せた。
(・・・な・・・なんなんだよこの展開は・・・)
「本当だよね?おにちゃんもずっと想っててくれたんだよね」
俺の腕に、妹の細い腕が絡まる。
何気なく妹の小さなふくらみが、服越しに二の腕に当たっているのに、俺は抵抗すら出来なかった。
「いつも我侭とか言ってるけど・・・本当はね、お兄ちゃんに構って欲しいからだったんだ・・・」
「え・・・」
「ごめんね」
「あ、いや・・・いいんだ・・・うん・・・」
なに動揺してるんだよ俺。
嘘だって言ってしまえばいいじゃないか。
でも、肩に掛かる絢香のさらりとした髪の感触が・・・。
じんわりと伝わる妹の温かさが・・・。
なんというか・・・これも悪くないな、と思った。
「おにいちゃん・・・」
妹がそっと顔を上げた。
顔がいままでになく近い。
いつになく、幸せそうな表情の絢香。
頬はもう真っ赤に染まっていていてそれで・・・。
抱き締めたい。
そんな衝動に駆られる表情だった。
あまりに俺たちは近すぎて。
触れるとはじけそうな唇が、呼吸をするたびにゆっくり蠢いているのも分かるくらいだ。
「・・・・」
俺の視線を感じたのか、妹は俺の瞳をじっと見つめたあと、そっと瞼を閉じた。
長いまつげがふるふると震えていた。
(あ・・・絢香・・・・)
冗談だったはずが・・・こんな事になってしまうなんて。
自然と俺は、唇を近づけていた。
(なにやってんだよ・・・冗談だったんじゃないのか?)
気持ちはそう思っているのに・・・唇が勝手に・・・。
あと少しで・・・妹と・・・。
と思った途端
「・・・って、嘘付くならここまでやらなきゃダメだよ?」
妹が俺の口付けをするりとかわし、急にベッドから立ち上がった。
「・・・・んぐっ・・・んあ?」
おかげで俺はそのままベッドに頭から突っ込む形となった。
妹は仁王立ちで俺を見下ろし、口元はニヤリと吊り上げている。
「おにいちゃん、嘘、下手すぎ」
「・・・ああ?」
「会社から帰ったときは普通だったのに、テレビでエイプリルフールの番組見てから様子がおかしくなってたよね。それでピンときたの。お兄ちゃん絶対何かたくらんでるなって」
「・・・ちょっとまて、お前、それを分かってて?」
「そう、こっちも調子合わせてただけ。でもまあ、お兄ちゃんもなかなかの演技力だったよ。『絢香のことを愛してしまったんだ』・・・ふふふっ・・・あははっ・・・お兄ちゃん最高・・・!」
絢香は肩を震わせるくらいに思いっきり笑っている。
騙すつもりが思いっきり逆に騙された。
つまりはそういうことらしい。
(バカみてえじゃん俺・・・)
じゃあさっきの女っぽい表情も嘘だということなんだろうか・・・。
(女っておっそろしい・・・)
俺はどうもそれに気が付くのが遅かったようだった。
「うふふ・・・でもお兄ちゃんって分かりやすいよねー」
「・・・なにが?」
「だってお兄ちゃん、嘘つくときね、絶対私の目見ないもん」
「・・・はぁ・・・」
もうため息しか出ない。
まあこんな俺だから、いつも振り回されちゃうんだろうな。
自分の間抜けさにさすがに呆れた。
「でもね・・・・おにいちゃん」
「なんだよ」
絢香は笑顔のままだったが、どこか真剣なまなざしで俺を見つめていた。
「でも、私のは本当だよ」
「ん?」
「・・・お兄ちゃんのこと・・・好きだから」
またあの表情だ。
すこし恥ずかしそうな、女っぽい顔つき。
思わず信じてしまいそうだが、何度も引っかかるほど俺もバカじゃあない。
「・・・はいはい、もうわかったよ。エイプリルフールはもう終わり」
「終わったから言ってるの。・・・ほんとだよ?」
「絢香、しつこいぞ」
「・・・・もう、ほんと、鈍感なんだから!」
「何怒ってんだよ」
「・・・もう・・・・・知らない!」
絢香は何故か眉を吊り上げて部屋のドアに向かった。
なんで俺は怒られてるんだろう。
騙されたのは俺のほうなのに。
扉を閉める前に絢香はちらりと壁を見やり、そして俺をじっと見つめる。
「いーーーーだ」
バタンッ!!
歯をむき出しにして思いっきりドアを閉めやがった。
(子供かあいつは)
ふと気になって、絢香が見ていた壁を見る。
「あ・・・」
そこには時計が掛けてあった。
0時10分。
本当に、もう、エイプリルフールは終わっていた。